狂気がすごすぎる生前葬を見つけた。
なんとなく「生前葬」でググったら理解できない動画が出てきたので紹介したい。
そもそも生前葬とは
生前葬とは、天国あるいは地獄にブチ上がる側(あるいはブチ下がる側)が、まだ生きているうちに行う葬儀のことである。本来、主役が出席できないはずの葬儀に出席できるというのがミソで、当の本人はほとんどの場合、喪主を務める。この様式はふつうの葬式・通夜よりも喪主=主役という式の強さにバフがかかるので、生前葬では喪主の好みや主義を思い通りに反映することができる。
物書きであれば「自分史」を自費出版して参列者に配ることができる。音楽好きであれば葬式でライブができる。葬式でドラフォができる。これはデカい。なんならピストルズの God Saves The Queen を演ることで、生きながらにして爆音で
There's no future,
no future,
No Future For You!
これができる。意識高い系であれば、葬儀イシューについてゼロベースからマターをアサインすることでブルシットなプレゼンをミーティングでバッファッファできちゃう。
バッファッファって何?
怖い……
生前葬の魅力は、このように「最後にやりたかったこと全ぶっこみ」という人生の最終決算・大掃除がまえもってできることだ。この魅力がいいのか、生前葬を選ぶ著名人は少なくない。カンニング竹山もビートたけしも赤木しげるも、他20名弱が生前葬を一度やっている。
件の動画
そういうわけで、やりたいようにやれば、生前葬は和やかに進むだろう。いきなり狂い出てきて局部でも晒さなければどうということはない。
仮にそれであなたが参列者の笑いを取れたとすれば、それはあなたが今まで常習的に狂いながら局部を出していたからに他ならない。捕まるぞ。弔う前からNo Futureなんだわ
逆に言えば、そうでもないかぎりは和やかに進むもんだと、そう思っていた。
下の動画を発見するまでは。
「絆創膏の男」島本了多 儀 生前葬 儀 於
サムネがもう怖すぎる
主役の島本氏の頭からつま先まで貼られているのは全部絆創膏である。
全部。
絆創膏。
そう全部。
これ……えぇ……何??
途中で股間のモザイク遅れ馳せ参じてるし……
ノーフューチャーかイエスフューチャーかって聞かれたら、これややノーフューチャーじゃない?君はどう思う?
個展の作品だった
勝手に調べたところによると、これはアーティスト・島本了太氏により2016年に開かれた個展だった。
プロフィールによると、島本氏はタマビを出てから「岡本太郎現代芸術賞展」に入選したらしい。しかも4年連続。上のポートフォリオにある作品もすごくアバンギャルドでオルタナティブ。
課金、ギャンブル、知覚の扉
いかにも隠れてムッツリと天井してそうな──風貌と喋りかただけど、おれは今までソシャゲに縁がない。ましてガチャの課金なんて、生まれてこのかたしたことない。
個人の意見なんだけど、これからもしないほうが精神にも財布にも優しいと思っている。個人的に、あれはコンビニで玉を買い、直帰して、家でやる風の、オンラインパチスロだと思っている。
「すみません、換金所はどちらに?」
「私は存じ上げませんが、皆さん点々バラバラ散り散りに行かれてますね……」
カード購入者はコンビニからあらゆる方向へ飛び出す。その方角のベクトル和をとるとゼロになる。だから彼らはどこにでも行っているようで実はコンビニからいっさい動いていないのである。
課金は孤独なパチンコだ。換金所という片割れを失くした、さびしい釘のあつまりである。
ソ連は宇宙船に犬のライカを乗せて地球を周回させた。おれたちにも赤い血が流れているのだから、彼らと同じことをやっているのは当然のこと。ロクな倫理観も持たずに無理やり宇宙船に諭吉を乗せて祈ることは、ライカもギャンブルも課金も同じことだ。
しかしギャンブルは、運が良いと勝てる。勝者にのみ開かれた出口がギャンブルで待っているし、ソビエトロシアでは出口が勝者を待つ!運とデータの間に知覚の扉があって、エイと気合を入れて瞳孔を開くとそれが現れるという。小出しに人生を賭けている人にのみ、その扉はお情けで開く。
お情けボタン倍プッシュした友人はこの前パチンコで8万負けたらしい。羽をむしり取られながらも「まだ舞える」と奮い立たせたのだという。食材を腐らせながら「まだ食える」と言い張る人と、いったい何が違うというのか。
扉ってホントにあんのかな……?
一方、悲しいかな、課金にはそれが無い。天井はあるけれど出口はない。欲しいキャラの扉絵を開いても、そこには開かれているのは出口に見せかけた茨の道だ。地獄への道は70%のRと0.04%のUSRで舗装されているが、キャラのかわいさあまりにその実態は見えないのだ。恋は盲目とはよく言ったものである。
文章力ってすごくあいまいだよねという話
あいまいな評価軸
なぜ人は文章力という評価軸をあいまいにとらえがちなのか?それはいまだ体系化された答えが生まれていないからだ。体系の源泉とは、まさしく「筆者がどう考えたか」を知ることである。しかし言葉の特性が仇になるから、肝心のその考えを多少なりとも文章に吹き込むというのは、実はできないことである。
そもそもの話、文章とは考えを影うつしにした結果をいう。思考が文章になる流れは、生きものが化石になる流れと同じである。つまり、どんなにすばらしい考えも、文章になる頃には死後硬直しているのだ。だから結果について、さまざまな評価を下すことはできる。故人の伝記を書きあげるようなものである。
一方、どういう考えをたどって書いたかという過程を文章はほとんど教えてくれない。筆者がどんなにがんばっても、考えたことの出がらししか出てこないのだ。言葉の特性とはそういうものである。なんなら言葉になる前の「生きた考え」の良し悪しだって、筆者自身もよくわかったものではないから、筆者のナマの考えを、読者は評価するどころか、感じ取ることさえできないのだ。故人が何を成したかは他人も知ることができる。しかし彼自身が何をどう考えていたかは、もう誰にも分からないのである。
答えを見てから、あれこれ言うのはたやすい。むずかしいのは、解答を見ずにどう解くかである。しかも、その解き方が今でもはっきりしていない。それと同じで、読んだあとの評価はかんたんにできる。結果を先に見ているからだ。だが逆に、
・文章力のある文章はどういう文章か?
・読ませる文章とはどういう文章か?
・そしてそれをどうやって書くのか?
とたずねてみると、それぞれバラバラな意見が返ってくる。それらに素直に従えば従うほど、文章力の概念はボケはじめていく。
まず手を付けるべきものは何か?これは本当に効果があるのか?とくに書きはじめの頃はハッキリしないものだらけだ。何がすぐに必要で、何を後回しにするべきなのか、それが初心者には判断できないのだ。方法論を選びまちがえると損をするのはあたり前のことで、逆効果の作法と知らずにこだわってしまうと、時間はそれだけムダになるばかりか、遅れを取り戻すためにおまけの時間を食うことだってありうるだろう。
ところで、ノウハウは木に例えることができる。それが幹(本質)と枝葉(本質でない)と害虫(やってはいけない)だ。文章術をネットで調べてみると、枝葉と玉虫がうっそうと茂るばかりで、幹がほとんど見当たらなかった。高山かな?
枝葉をなぎ払って日銭をかせぐ人は非常に多いが、幹を切り倒そうとする人はひじょうに少ない。誰でも書きこめるネットではその傾向がいっそう強くなる。
例
・まずは言語化してみる
(言語になる前の『ナマの考え』をみがくのが先であるから、これは枝葉にすぎない)
・まず結論から書く
(ぜひやるべきだが一面的だ。あえて結論を最後に置いてグイグイ引っ張るのも方法のひとつである。これは本質に見えるが、実は枝葉に分類される)
・一文を短く(必ずしも守るものではない。短くしない方がテンポがよく、分かりやすいのであれば、100字ほどの文が混じっていてもよい)
・「という」「こと」の単語を機械的に切り捨てる
(リズムが崩れることがあるのでNG。害虫である)
・本を読む
(読書とは他人に考えてもらうことであるから、読書に加えて自分で書かなければ上達しない。これでうまくなったら苦労しない)
こういう枝葉や害虫のノウハウにはまると、ギブアップに王手がかかる。あとは努力がイヤになるのを刻一刻と待つだけだ。そのうち、なんだか上手いやつははじめから上手かったような気までしてきて、ついに
「文章って才能だったのか……」と落胆してしまう。
どう書いたか
それでも物は試しで、「とりあえずパクってみる」が有効……かと思いきや、有効だが即効ではない。コピー自体、初心者にはむずかしい。パクるのさえ経験だ。どういうことかというと
「これはどういう印象をあたえる文体で、なぜその文体を使っていて、なぜスラスラと読めるのか、または読めないのか?何が障害になっているのか?自分だったらどう書くだろう」
という段階まで分かっていなければ、パクった文体を自分の血肉にはできないのだ。だからカンがつかめるようになるまでひたすら読みつぶし、書き写すことでしか他人の文章は取り込めない。それしか上達の方法が無い。これが文章術の実情である。
できることなら一歩踏み込んで、筆者の考えかたについて探れるならば、それが文章上達には一番効くはずである。しかし、
「何を書いたのか考えるのと同じくらい正確に、どのように書いたのかも考えてみたい」
これは残念ながらできない相談だ。「どう考えて書いたかは筆者以外のだれにも分からない」という大前提を押し切って、書かれていないそれ以上のことにまで言及すれば、読みかたが独りよがりに逸れていくからである。
ひどい場合は、あらぬ誤解を受けて筆者がバッシングを受けてしまうこともある。
ツイッターでのレスバを例にとると、それはだいたい、受け取る側の読解力がおかしなことになっているからだ。彼らの読みかたはしっちゃかめっちゃかで、書いていることには注意散漫・無知蒙昧でありながら、書いてないことばかり読もうとして懸命である。
これは仕方ない。読解トレーニングをサボった人間は文中に無いものを読みたがるからだ。痩せたいのにダイエットを避ける人はいつしか、自己流の矛盾したダイエット法を編み出す。文章読解を避けながら読みものを探す人は、知らず知らず自己流の読みかたを身につけていく。自己流の読みかたをする人は、自己流の書きかたをするだろう。自己流に話して、自己流に聞くだろう。
そうして自己流と自己流がぶつかると、どちらも正統な順序を踏んでないのだから、どちらが筋がとおっているかはあまり問題にならず、
・声のでかいほう
・フォロワーの多いほう
・耳ざわりのよいほう
・社会的な強者
が勝つ。現在、議論というたてまえで行われているのは、実はフロウとライムのないフリースタイルダンジョンである。人が話してるところに口をはさんでこじあける、テクニック。
「言外の意味を捉える」「行間を読む」これらは本文をきちんと読んだあとで手を付けることだ。もしも主張がおかしい──言葉たらず、食いちがいがある──と感じたら、怒りにまかせてカマすのではなく、筆者(あるいは関係者)の補足を待つことだ。冷静な態度で質問してもよい。
確定できるのは「何を書いている?」ということだけしか無いのだ。それ以外の要素については、ただアタリを付けていくしかないのである。
モデルと狂気
だったらもう、「何」だけでもなんとかできないものか。書いてあることについてだけ、定性的および定量的に評価できたとしたらどうだろう。つまり、
「その文章はこうだから何がどのくらいある」「あれによって足りないものがこれで、その数はいくつあるからこうするといい」
こういう具体的な評価だって、すこしはナマの考えに近づけているのではないか?しかし、これでもまだまだ未発達だ。
そもそも、評価は科学的に発達していくほうがのぞましいのか?文章にかかわる要素をまるごと正しく評価できるような──いわゆる科学的な──指標が作られ、ついでその評価に沿って文章を再現できるマシンが作られるとしよう。そしていつしか文筆業が人工知能に取って代わられる。それは果たして「善」か?作家もたまにはサボれるのだろうか。
実はまだサボれない!OpenAIが制作した最新の文章生成言語モデル「GPT-3」は、たしかにおどろくほど自然な文章を生成するし、プログラミングまで勝手にこなしてしまうほどの有能さをほこる。
しかし文章については、「あくまで『自然な言葉をそれなりに生成するだけ』」(上の記事から引用)にすぎない。この期待多き言語モデルは、単語の自然なつながりは理解できていても、矛盾の無い文脈や背景知識、「これ書いてホントに大丈夫かな?」という道徳・倫理の一面まで理解できているわけではないのである。もちろんそれは、自由な文章生成をしばる足かせ手かせが無いということだから、それだけ向こうみずに、何でもよどみなく書きすすめてしまうことになる。このありさまは、G.K.チェスタトンが定義した「狂人とは何か」によく似ている。
狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。……(中略)……狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人のことである。
ギルバード・キース・チェスタトン「正統とは何か」
つまり、まだこのモデルには責任能力がないので、文責をまかせることができないのである。世に出すためには一旦、人の目でチェックをはさまなければならない。結局、AIにもまだまだ人手が必要ということだし、作家はサボれない。
酒の抜きかた
体験談
ぼくは酒で記憶を飛ばしてぶっ倒れたことが四回あって、中でも一番ひどかったのはやっぱり一人きりの宅飲みだったと思う。ウォッカを飲みすぎて、クローゼットに頭を突っ込んだまま、学部の課程で言えば2年の夏休みぐらいの今にも中退しそうなやる気無い食べ物を、逆噴射して虚無に着陸したのだっけ。
着陸した後はひどい二日酔いのまま、「汚した服やカーペットを処分しながら試験勉強をする」というよく分からないことになった。「500年は酒飲まないので許してください[誰に向けて?]」とヒイヒイしながら誓ったんだけど、なぜかその誓いが今月まで無限増殖していて、ver7.3.2くらいに更新されてんだよな……。
そういうわけで、酒のアテに食べたタンタン麺もイカ燻製も、もちろんウォッカそのものも、ウォッカを使ったカクテルまで、いっぺんに大嫌いになってしまった。これ以上食べ物を嫌いになると栄養失調になってしまうので、そういう悪い飲み方も、今はなるべく控えている。
酒を抜く前に
お酒をブン回してエンジンを取り付けて気持ちよくなりたい(なった)、でも不始末はしたくない(した)、二日酔いにもなりたくない(なった)。そういうときに重宝するのが「酒抜き」である。
それをこれから説明したいんだけど、酒を抜いてみる前に、ちょっと考えてみてほしい。
ホントの酒飲みとして、飲む前に明日のことを考えるという心構えは正しいんだろうか?
否。会社や学校、はたまた体調ウンヌンだったり、明日のことが気にかかるような精神状態で酒を飲んではいけない。そんなことでは何を飲んでも楽しくない。「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」と猪木が記者をビンタしたのはつまりそういうことで、飲む前に二日酔いのこと考えるやつはきまってどっかバカなんである。
「飲酒から『文化的な側面』が失われはじめたら危ない」ある作家はそう言ったのだけど、まさしくその通りだ。酒は気の置けない友人と一緒に、あるいは一人でも、とにかく満たされた体と心でもって、ポジティブに享受するに越したことはない。バーにおもむいて雰囲気代を払ったっていい。逆に、将来を儚んだあとでひとりぼっちのヤケ酒なんて最悪だ。最悪きわまる。
要は、何につけても不健康なやり方ってのがあるもんで、安酒とかアレコレ言うのは、まず悪い飲み方をやめてからにしませんか?ということだ。
酒にケチつける前に、胸に手を当てて、己が来し方をまず振り返ってみてほしい。連絡すれば酒とツマミを持って(オンラインでも)集合してくれて、いろんな空気がZOOM ZOOMブチ上がっていくような友達、あなたには何人いますか。もしかするとあなたが友達だと思い込んでいるのは、選択不能なままの立ち絵のシルエットだったりしませんか?
酒の抜きかた
ふしぎなもので、良い飲み方をすると同じ酒でも悪酔いしづらいし、後にもひびかない。仮にひびいても後悔が無い。不快感は限りないけど、酒抜きとは、こういう良い飲み方をしたときにはじめて役に立つものだ。それを今から紹介しよう。
前準備:飲む前
明日のことは考えないようにしよう。飲む前に肝臓系のサプリ(ウコンなど)を飲むと最速で肝臓杯を走り抜けることができる。コーナーで差を付けろ。もともと故障がある人はウコンがそれを悪化させてしまうという研究結果もあるので、自覚のある人は少なめに。この時点でスポーツドリンクと、以下に示す薬を買っておくと、明日のことが気にかかる人は助かるかもしれない。
飲み会中
場所・時間・金・人、これが揃えば言うことは何も無い。好きな酒デッキでベストを尽くそう。はじめは度数の少ない酒から、だんだんヌルっと入っていくのがセオリーといえばセオリーだけど、俺達に明日は無いと本気で思ってるスピード感のある人は、乾杯からウイスキーをイッキなどするし、する。学生特有のコールでメダパニを食らうと酒デッキが3秒で破壊されるので、弱い人はマジで乗らないほうがいい。コールもコールでやんないほうがいい。
(肝臓が)ドッカンバトルするまでは、人は何だって飲む。それでも人はリスクの少ないほうを取る。最速で死にたくはない。でも頭の中を異世界に飛ばしたい。そういうときのやり方もちゃんとある。
ドラッグにはスピードボールという、アッパードラッグとダウナードラッグをチャンポンする摂り方がある。かつおだしと昆布だしが合わさるとうま味が倍増するように、ドラッグ界の陽キャと陰キャを合わせると双方を統べる陰陽師になるんだな。
この原理を流用して、レッドブルウォッカを飲んだり、酒と一緒にコーヒーやエナジードリンクを飲むなんかすると、カフェインのアッパー作用とアルコールのダウナー作用、そして両方が持つ利尿作用が三位一体になる。脳をブン回しながら押さえつけているので、飲めば飲むほど
とにかく、きく。
そういう坂口安吾みたいな感想しか出てこなくなる。それを楽しんでるうちに水分が抜けて、ベランダにへばりついた生乾きのタオルみたいになってしまう。
飛ばしすぎると、お開きを待たずにひっくり返ったカブトムシみたいになってしまうので気を付けよう。
飲みのあと(帰宅)
少しゲボのあるカブトムシが帰巣本能をたよりに帰ってきた。そろそろ人間に戻ろう。どんなに嫌でも明日は来るんだ。
まず、前もって買ってきたスポーツドリンクを大量に飲む。そしてトイレに行って水分を出す。吐いてしまうと胃酸で歯が溶けていくので(ぼくは2本溶かした)なるべく吐かないようにこらえておきたいところだ。
次にちょっとぬるめの風呂に長時間入る。汗をかいて酒を抜く方法だ。注意として、まだ酒が抜けてないので、熱い風呂に入ってはいけない。シラフなら熱い風呂でもまあまあ大丈夫なんだけど、酔った人が入るとどうなるかというと、あっという間に温度差によるショックで、なんというか、えらいことになってしまう。やめておこう。やめろ。
寝る時、枕元には大正漢方胃腸薬とミラグレーン錠を用意しておく。二日酔いを早く治すためだ。このときはまだ酒が眠剤代わりになっているので、気絶するように眠れると思うけど、それ実際に気絶してるんであってホントは眠ってるわけじゃないぞ。「酒で眠れる」はワザップ。
そこまでやったっていうのに、寝ている間に毒を盛られたような体調で翌日は目が覚めると思う。考えないようにしておいたはずの明日が、まったく普通に、しかもトイチの利子付きで来ちゃったときの、あの無力感と不快感のスピードボールが、このときばかりはペプシのマークみたいになって、腹の中でぐるぐるしている。それは当然のことで、こちらが肝臓を傷めつけているとき、肝臓もまたこちらを傷めつけているのだ。はたらく細胞(ベトナム戦争)を終わらせるのが、枕元に置いた2種類の薬。
とくにミラグレーン錠は肝臓に効く上に利尿作用があるので、水分補給さえしっかりしていれば、体内に残ったアセトアルデヒドをすみやかに排出してくれるといいよな。まだ飲んだことないんでよく分からないんだけど、常備薬として置いておくに越したことはない。
迎え酒は、明日が鉄砲玉の人用のワザップなのでマネしないように。
どこか自分に似ている人とめちゃくちゃ煙草を吸った話(上)
私がNさんに惹かれたきっかけは彼のブログだった。記事を読むたび、画面に張り付くような冷たい心地を味わった。当時の私は、冬期にありがちな<ふさぎ込み>を持て余していた。その症状が後押ししたかもしれない──とにかく私は、彼の文章の虜になった。
2019年。煙草のタールも5mgを過ぎ、その重さに便乗して持病の花粉症が激しくなってくる、そんなときに私はNさんと会う約束をした。ツイッター上で知ったのだけど、同じ県に住み、ふたりとも詩や文章を書いていて、おまけに両方とも、このご時世に喫煙者だった。だからこの際、一度オフで会ってみよう、そしてその日にはイチオシの本や音楽なんかを、駅からほど近い、煙草の吸える所で話そう──ということになった。私にとってはそれが初めてのオフ会だった。
ブログには暗い過去も綴られていた。そんな彼の顔を、私は初めて見ることになるのだった。
約束の前日。トートバッグに厳選した本を数冊入れた。NさんがSyrup16gのCDをオススメしてくれるというので、ノートPCも追加で詰めた。修学旅行前と同じくらい目がギンギンに冴えていた。
今思えば、単に精神年齢が高校生のままで止まっていただけなのかもしれない。
* * *
迎えた当日。
果たして精神年齢は高校生のままだった。寝坊した。2㎞離れた最寄り駅まで50m8秒の鈍足で走ったにもかかわらず、1時間1本の鈍行に間に合ったのは、正直奇跡としか言いようがなかった。ただ喉元過ぎればなんと言うのか。遅刻を免れて安心したのか、車両が2駅目を過ぎる頃には、
(またオレ何かやっちゃいました?)
そう言わんばかりの優雅な気持ちで足を組み、岩倉文也の処女作を読み始めていた。
やっちゃいましたの意味がちょっと違うんだよな……
客の少ない朝の列車はゆっくりと市の境を踏み越えていった。待ち合わせのA駅を含め、どの駅に停まっても、開いたドアから入り込む風は肌寒かった。3月。春は限りなく近いようで、実はまだその扉を開けきってはいなかった。ふと気付けば、人差し指と中指で作った隙間がちょうど、煙草の太さになっている。前日にコンビニの灰皿で吸った2, 3本で最後だったことを、このとき初めて思い出した。
ところで、待ち合わせというのは意外と頑固なもので、いったん日時をコレと決めてしまった後では、あまり動かすことができない。遅れます、あるいは日を改めますとかならまだ分かるけど、こちらの状況も聞かずに
「早く着いちゃったんで集合○○分だけ早めていいすか?」
とかいう過去への巻き戻しだけはどうしても無理だ。
だからこれは至極当然なんだけど、待ち合わせ時間を決めたのはこっちが先だし、こっち側に1時間1本とかいう冨樫ダイヤの方からカチ合わせてくるなんてまずあり得ねえんだわ……。
要するに私はけっこう早めに着いてしまった。
相手を急かすわけにもいかず、他にどうしようもないので、その空いた時間でとりあえず煙草を買った。駅前には必ず喫煙所があるものだとすれば、そこでならいくらでも時間を潰せると、そう確信してのことだった。新幹線の通るA駅は、県下でもかなり大きく洗練されていたので、よく探してみれば、駅前あたりにそういうスペースだってありそうなものだった。出身の市にある小さな駅でさえ、灰皿ひとつが設けられていたのだ。この駅にはそれ以上の設備があるはずだった。
しかし悲しいかな、そういう駅ほどいち早く時代の流れを受ける。
すでに喫煙スペースなんてありはしなかったのだ。駅そのものが洗練されていれば、その周囲もやはり洗練されていて、どんなに探しても灰皿ひとつありはしなかった。灰皿ひとつさえ。代わりに禁煙マークがB.E.P.のPVばりに貼られていた。私の頭の中も?マークで一杯だった。What's wrong with the world mama……?
The Black Eyed Peas - Where Is The Love? (Official Music Video)
ポケットの中で不本意に指をあそばせる。すべての行為が私の中で完結して、決して他者へとはみ出すことは無いだろうこの指を。
そうして駅を出たところにある柱の前で、私はNさんが来るのを待った。流れてくる人を、ああでもない、こうでもないと見極めながら、工場の検品作業員のように数分ほど待っていると、人混みの中にぽつねんとした、背が高い細身の男性を見つけた。私と目が合うと、男性は軽く、うなずくように会釈をした。Nさんというのはその人だった。
Nさんは一見して何かが違っていた。一瞬の間、私は会釈を返すのも忘れて、Nさんから目をそらせなくなってしまった。
コートにジーパン(記憶が定かでない)という普通の格好で遠くの方から歩いてきていて、第一印象は「今風の顔が良いバンドマン」というところだ。服装や歩き方、髪型も髪の色も、周囲と何も変わらない。それでも彼には、何とも言えない違和感があった。とにかく他人と何かが違うとしか思えなかったけれど、いったい何がどう違うというのだろう?
強いて言うなら、それは彼の目つきだった。
その両目が他の有象無象を蹴散らすように私を捉えているのに、一方で、彼の目を除いた他のすべての要素は、必死になって有象無象に同化しようとしている。そういうタイプは彼が初めてだった。それだけに、遠くから見ると奇妙な感じがした。姿はぼやけていても、まるで目だけがくっきりと見えるようだ。
ただ、だんだんこちらに歩いてくると、なんのことはない、彼はいたって普通の、大人しそうな──顔の良い人だ。近づいた後でNさんはもう一度会釈した。
「ゴリラ(自分のツイッター上の名前)さんですか、初めまして!」
「どうもNさん、こちらこそ」
私は私で、よりによってツイッター上のネームで呼ばれるのは、何かこそばゆい感じがした。
「あ、リアルでもあの役はちゃんと演じなきゃいけないのね、そういうことね」
というかなりの変化球に対して、溜飲を下げなければいけなかった。
彼とLINEでやり取りするとき、私は本名のアカウントしか持っていなかったので、それで彼とやり取りしたけれど、彼のアカウントは本名ではなかった。彼が別個で本名のアカウントを持っていたかどうかは分からなかったが、どちらにせよ、私はNさんに個人情報をガッツリ明け渡してしまった。それで私の何かが弱くなった。これは考えすぎなのだけど、彼にツイッター上の名前で呼ばれることで、私の本名という弱みを握られているような気がした。
しかしゴリラ呼びされているほうが慣れていたので、何も言わなかった。これはLINEの別垢を作らなかった私が悪い。悪いと思ったことはすべて血肉の経験となる。そう思った。
とにかく早く煙草が吸いたかった。甘ったるいキャスターをアイスコーヒーで流しこみたかった。Nさんに案内されて、私たちは商店街の中にあるカフェへと歩いた。
(続く)
権威と権力とピザ
権威はとりもなおさず、「人がおのずと従ってしまうような力や関係」のことをいう。
「あのお方が言うんならそうなんだろう、そうするしかないよな」
というゾンビの動き、まさにそういうことだ。これは言ってしまえばピザみたいなもので、使用者の価値/優秀さをブン回して同心円状に伸ばし、信頼関係をトッピングした後、良い感じに焼いたら出来上がるのだけど、味としてはなぜか信頼単体よりパンチがあるようで、自分の意見が無い人をやたらシャキッと動かす効果がある。
ところで、人をシャキッと動かすからには権力なるものもある。これは信頼してない人も強制的に従わせる力のことで、権威とは微妙に違うものだ。権威は英語でオーソリティー。権力は英語でパワー。名は体を表すとはよく言ったもので、権力は権威に比べて、とにかくスピードと爆発力がえげつない。
そもそも、権威にはある種の専門性が必要で、その分野に明るめの人や、その人の業績を前から知っている人や、その人を信頼している下僕とかでないと鋭く刺さらない。無教養・無関係の素人には、権威の放つ光が届かないのだ。ロックを知らない人はレッド・ツェッペリンの凄さが分からないし、徳川光圀を知らない人に印籠を見せたって、ミリも控えおろってくれない。
ミリも控えおろってくれないんじゃないかな……
そんな権威の弱点を克服する代わりに、権力は重装備・重課金を余儀なくされた悲しきモンスターである。どんな人にも分からせるためには、とにかくハイ・ステータスな武装をする必要があるのだ。権力も権威のように、ピザとして人に食わせることもできるっちゃあできるが、なにせトッピングが武装なので、かなりの回数トッピングガチャを回す必要がある。
武装ガチャについては、ロシアやメキシコのサーバーからログインすればアツいという噂がある。行ってから母国のサーバーへ戻ってきた人が皆無なので、きっと本当だ。
火力で比べればたしかに権力に劣るものの、その代わり権威にはパワープレイにありがちな
(a)いきなり夜道で背中を刺される
(b)気づいたら溺れてる
などの致命的な副作用が少ない。おまけに、使用者とピザ生地のどちらがパチモンでも、なかなかハッタリをかませるのが無課金勢・エンジョイ勢に優しい。その証拠に、探してみればあちらこちら、自分の権威を大風呂敷に伸ばしまくって回収できないままの職人がいるはずだ。
よほど自信があるのか、中には自分のことを神様と呼んで欲しい人が、店員に向かいここぞとばかりに狂い回し広げる場面をよく見かける。そういう人は大半がエンジョイ勢なので、ガチな「権力」持ちのユーザーとピザしばきあい対決するとなんやかんやで両方出禁になって負ける。
それでも両者は、ともに「人をシャキっと動かす」というコアを持っている物質なので、権威と権力はそれぞれ似た形状をしている。しかも一方の弱点をもう一方が補うというオイシイ構造をしているので、ひとりの人間やひとつの団体の中にセットで置いとけば、遅かれ早かれ、割と高確率でマッチングする。好奇心に駆られてこれらをドッキングさせてみると、隙間から人肌ほどの熱を感じる閃光がとめどなくあふれ出して、その時一番近くに居た人がよく分からん理由でどこにもいなくなってしまう。
多分そういうもんなんだろう。どっちも自分は持ってないけど