ゴリラになるブログ

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文章力ってすごくあいまいだよねという話

あいまいな評価軸

 なぜ人は文章力という評価軸をあいまいにとらえがちなのか?それはいまだ体系化された答えが生まれていないからだ。体系の源泉とは、まさしく「筆者がどう考えたか」を知ることである。しかし言葉の特性が仇になるから、肝心のその考えを多少なりとも文章に吹き込むというのは、実はできないことである。

 そもそもの話、文章とは考えを影うつしにした結果をいう。思考が文章になる流れは、生きものが化石になる流れと同じである。つまり、どんなにすばらしい考えも、文章になる頃には死後硬直しているのだ。だから結果について、さまざまな評価を下すことはできる。故人の伝記を書きあげるようなものである。

 一方、どういう考えをたどって書いたかという過程を文章はほとんど教えてくれない。筆者がどんなにがんばっても、考えたことの出がらししか出てこないのだ。言葉の特性とはそういうものである。なんなら言葉になる前の「生きた考え」の良し悪しだって、筆者自身もよくわかったものではないから、筆者のナマの考えを、読者は評価するどころか、感じ取ることさえできないのだ。故人が何を成したかは他人も知ることができる。しかし彼自身が何をどう考えていたかは、もう誰にも分からないのである。

 答えを見てから、あれこれ言うのはたやすい。むずかしいのは、解答を見ずにどう解くかである。しかも、その解き方が今でもはっきりしていない。それと同じで、読んだあとの評価はかんたんにできる。結果を先に見ているからだ。だが逆に、

・文章力のある文章はどういう文章か?
・読ませる文章とはどういう文章か?
・そしてそれをどうやって書くのか?

 とたずねてみると、それぞれバラバラな意見が返ってくる。それらに素直に従えば従うほど、文章力の概念はボケはじめていく。

 まず手を付けるべきものは何か?これは本当に効果があるのか?とくに書きはじめの頃はハッキリしないものだらけだ。何がすぐに必要で、何を後回しにするべきなのか、それが初心者には判断できないのだ。方法論を選びまちがえると損をするのはあたり前のことで、逆効果の作法と知らずにこだわってしまうと、時間はそれだけムダになるばかりか、遅れを取り戻すためにおまけの時間を食うことだってありうるだろう。

 ところで、ノウハウは木に例えることができる。それが幹(本質)枝葉(本質でない)害虫(やってはいけない)だ。文章術をネットで調べてみると、枝葉と玉虫がうっそうと茂るばかりで、幹がほとんど見当たらなかった。高山かな?

 枝葉をなぎ払って日銭をかせぐ人は非常に多いが、幹を切り倒そうとする人はひじょうに少ない。誰でも書きこめるネットではその傾向がいっそう強くなる。

・まずは言語化してみる
(言語になる前の『ナマの考え』をみがくのが先であるから、これは枝葉にすぎない)

・まず結論から書く
(ぜひやるべきだが一面的だ。あえて結論を最後に置いてグイグイ引っ張るのも方法のひとつである。これは本質に見えるが、実は枝葉に分類される)

・一文を短く(必ずしも守るものではない。短くしない方がテンポがよく、分かりやすいのであれば、100字ほどの文が混じっていてもよい)

・「という」「こと」の単語を機械的に切り捨てる
(リズムが崩れることがあるのでNG。害虫である)

・本を読む
(読書とは他人に考えてもらうことであるから、読書に加えて自分で書かなければ上達しない。これでうまくなったら苦労しない)

 こういう枝葉や害虫のノウハウにはまると、ギブアップに王手がかかる。あとは努力がイヤになるのを刻一刻と待つだけだ。そのうち、なんだか上手いやつははじめから上手かったような気までしてきて、ついに

「文章って才能だったのか……」と落胆してしまう。

 

どう書いたか

 それでも物は試しで、「とりあえずパクってみる」が有効……かと思いきや、有効だが即効ではない。コピー自体、初心者にはむずかしい。パクるのさえ経験だ。どういうことかというと

「これはどういう印象をあたえる文体で、なぜその文体を使っていて、なぜスラスラと読めるのか、または読めないのか?何が障害になっているのか?自分だったらどう書くだろう」

という段階まで分かっていなければ、パクった文体を自分の血肉にはできないのだ。だからカンがつかめるようになるまでひたすら読みつぶし、書き写すことでしか他人の文章は取り込めない。それしか上達の方法が無い。これが文章術の実情である。

 できることなら一歩踏み込んで、筆者の考えかたについて探れるならば、それが文章上達には一番効くはずである。しかし、
「何を書いたのか考えるのと同じくらい正確に、どのように書いたのかも考えてみたい」
これは残念ながらできない相談だ。「どう考えて書いたかは筆者以外のだれにも分からない」という大前提を押し切って、書かれていないそれ以上のことにまで言及すれば、読みかたが独りよがりに逸れていくからである。

 ひどい場合は、あらぬ誤解を受けて筆者がバッシングを受けてしまうこともある。

 ツイッターでのレスバを例にとると、それはだいたい、受け取る側の読解力がおかしなことになっているからだ。彼らの読みかたはしっちゃかめっちゃかで、書いていることには注意散漫・無知蒙昧でありながら、書いてないことばかり読もうとして懸命である。

 これは仕方ない。読解トレーニングをサボった人間は文中に無いものを読みたがるからだ。痩せたいのにダイエットを避ける人はいつしか、自己流の矛盾したダイエット法を編み出す。文章読解を避けながら読みものを探す人は、知らず知らず自己流の読みかたを身につけていく。自己流の読みかたをする人は、自己流の書きかたをするだろう。自己流に話して、自己流に聞くだろう。

 そうして自己流と自己流がぶつかると、どちらも正統な順序を踏んでないのだから、どちらが筋がとおっているかはあまり問題にならず、

・声のでかいほう
・フォロワーの多いほう
・耳ざわりのよいほう
・社会的な強者

 が勝つ。現在、議論というたてまえで行われているのは、実はフロウとライムのないフリースタイルダンジョンである。人が話してるところに口をはさんでこじあける、テクニック。

 「言外の意味を捉える」「行間を読む」これらは本文をきちんと読んだあとで手を付けることだ。もしも主張がおかしい──言葉たらず、食いちがいがある──と感じたら、怒りにまかせてカマすのではなく、筆者(あるいは関係者)の補足を待つことだ。冷静な態度で質問してもよい。

 確定できるのは「何を書いている?」ということだけしか無いのだ。それ以外の要素については、ただアタリを付けていくしかないのである。

 

モデルと狂気

 だったらもう、「何」だけでもなんとかできないものか。書いてあることについてだけ、定性的および定量に評価できたとしたらどうだろう。つまり、
「その文章はこうだから何がどのくらいある」「あれによって足りないものがこれで、その数はいくつあるからこうするといい」
こういう具体的な評価だって、すこしはナマの考えに近づけているのではないか?しかし、これでもまだまだ未発達だ。

 そもそも、評価は科学的に発達していくほうがのぞましいのか?文章にかかわる要素をまるごと正しく評価できるような──いわゆる科学的な──指標が作られ、ついでその評価に沿って文章を再現できるマシンが作られるとしよう。そしていつしか文筆業が人工知能に取って代わられる。それは果たして「善」か?作家もたまにはサボれるのだろうか。

 実はまだサボれない!OpenAIが制作した最新の文章生成言語モデルGPT-3」は、たしかにおどろくほど自然な文章を生成するし、プログラミングまで勝手にこなしてしまうほどの有能さをほこる。

cubeglb.com

 しかし文章については、「あくまで『自然な言葉をそれなりに生成するだけ』」(上の記事から引用)にすぎない。この期待多き言語モデルは、単語の自然なつながりは理解できていても、矛盾の無い文脈や背景知識、「これ書いてホントに大丈夫かな?」という道徳・倫理の一面まで理解できているわけではないのである。もちろんそれは、自由な文章生成をしばる足かせ手かせが無いということだから、それだけ向こうみずに、何でもよどみなく書きすすめてしまうことになる。このありさまは、G.K.チェスタトンが定義した「狂人とは何か」によく似ている。

 狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。……(中略)……狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人のことである。

ギルバード・キース・チェスタトン「正統とは何か」

 つまり、まだこのモデルには責任能力がないので、文責をまかせることができないのである。世に出すためには一旦、人の目でチェックをはさまなければならない。結局、AIにもまだまだ人手が必要ということだし、作家はサボれない。